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2023年 06月 02日
国立民族学博物館
岡山古墳めぐりのあと
盟友上総守殿と大阪千里の国立民族学博物館へ出かけた

前回来たのは桜のころだった
「ラテンアメリカの民衆芸術」展はまだ開催されている(最終日は2023.5.30)

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館内にはいる

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今回は全部見きれていないが、
衣装をみた

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在日コリアン



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漢民族


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モンゴル帝国時代

ミュージアムショップによると
気になる本があった

『季刊民族学 172 特集 1970年、梅棹忠夫が見ていた未来』を買う
ほかに見ていたら

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があった
後日図書館で借りて読んだ
おもしろい本だった

で小山修三さん(前からよく本や、対談とかで知っていた)が
去年10月に亡くなられていた
びっくりした





# by jitetabi | 2023-06-02 19:08 | 博物館 | Comments(0)
2023年 06月 02日
須恵器2

須恵器1の復習のつづき


須恵器はロクロを使用したため、小・中型品がよりはやく製作できるようになった


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(すこし時代雰囲気が異なるが)


またタタキ板と当て具をもちいて大型品を成形した。タタキ技法という

タタキ板を外側に、当て具を中側にもちいた


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タタキ板


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タタキ板の拡大


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当て具


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当て具の拡大


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当て具の跡


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タタキ板の跡


器種にはさまざまなかたちが存在した。

甕、壺、蓋杯、高杯、椀、器台、瓦泉(はそう)などがある


瓦泉とは壺型の容器で同の部分に穴をあけたもので、穴に管をさして液体を吸ったりそそいだりしたもの


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器台とは

そもそも壺は、大事な米や水などを貯蓄するための器種であり、弥生土器の中で最も貴重な器種の一つである。この大事な壺を飾るために、中期頃から器台が現れる。後期になって器台は、墳丘墓の巨大化に伴い、そこに置かれる供献具として自ら巨大化し、特殊器台となる。

(岡山県古代吉備文化財センターHP)


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かぎ穴状の模様


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特殊なものとして、船形須恵器、陶製人形、角杯などがある

角杯は牛の角を模したものだ


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船形須恵器


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須恵質人形


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角杯型須恵器



須恵器2の復習の復習をした



# by jitetabi | 2023-06-02 15:09 | 博物館 | Comments(0)
2023年 06月 01日
須恵器Ⅰ

先般兵庫県立考古博物館の講演会に出席したあと

あらためて復習をかねて考古博物館に出かけた

講演会のテーマは「古墳時代の新たな器ー須恵器ー」だった


レジュメにそって、復習をしてみる


そもそも須恵器とは


いまから約1600年まえの5世紀ごろの古墳時代中期、国内外のうごきが活発化した。高句麗が南下し侵略。百済・伽耶が倭と交流をはかろうとした。


また国内では大和から百舌鳥古墳群へうつる時代であった。

そのころ朝鮮半島からさまざまな文物・ひとが渡来してきた。


鉄鍛治、竈(かまど)、牛馬利用など。また、須恵器生産技術もつたわってきた。


朝鮮半島の陶質土器の製作技術がわたってきたのである。日本ではこれを須恵器という。


Wikipediaによると、朝鮮半島の陶質土器と、須恵器の区別が載っている。

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須恵器の起源は朝鮮半島(特に南部の伽耶)とされ、初期の須恵器は半島のものと区別が付きにくいほど似ているが、用語としては日本で製作された還元焔(かんげんえん)焼成の硬質の焼物だけを須恵器という。朝鮮半島のものは、普通名詞的に陶質土器と呼ばれるか、伽耶土器・新羅土器・百済土器などもう少し細分した名で呼ばれている。

(Wikipedia)

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渡来人の痕跡の一例をあげると、

姫路市市之郷遺跡で竈あとがみつかった。渡来人の家であった

ことがわかった。


神戸新聞記事よりみてみると、

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兵庫県姫路市埋蔵文化財センター(同市四郷町)は、同市市之郷の市之郷遺跡で、古墳時代中期の竪穴建物跡6棟が見つかったと発表した。うち1棟で5世紀前半に使っていたとみられるかまどが確認された。同センターは「かまどを持つ竪穴建物は日本古来ではない。この頃から渡来人が住み始めたと考えられる」としている。
 JR東姫路駅周辺に広がる同遺跡は、弥生時代から中世の集落跡。1995年から断続的に発掘調査が行われ、朝鮮半島からの渡来人の居住を裏付けるかまど付きの竪穴建物や韓式系土器が見つかっている。
 今回の調査地点は同遺跡の東端の約666平方メートル。高齢者向け住宅の建設工事に伴い、昨年10月から発掘調査をしていた。
 竪穴建物跡はいずれも方形で、一辺の長さは約3~5メートル、深さは約40~50センチ。うち最も小さな建物跡から造り付けのかまどが見つかり、5世紀前半の土師器で高坏の一部や韓式系土器の破片が出土した。
 土器の特徴から、かまどを持つ建物の中でも最も古い時期に住居として利用されていたとみられるという。95年に県が調査した際に、南東約30メートルの場所でも同様の建物跡が見つかっており、センターの担当者は「5世紀前半には渡来人の集落があったことがうかがえる」としている。

(神戸新聞2018.1.26記事)

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須恵器は5世紀から中世、鎌倉時代までつくられたが、5世紀前半には全土でつくられ、中世までつづき、古墳の副葬品として出土する。年代のモノサシである。

とくに瀬戸内に集中し、北限は岩手県水沢市の中半入遺跡、南限は鹿児島県指宿市の南摺ケ浜遺跡だそうだ。

やがて中世には陶器にかわって須恵器はなくなる。


弥生時代後期から終末にかけては土師器であった。

土師器は器質が軟質で、液体の保存にはむいてないが、火につよく、煮炊きなどにむいている。


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また従来の土器ーー縄文土器、弥生土器、土師器は野焼きだった。


いっぽう、須恵器は器質が堅牢、精緻で水をとおさない。壺や甕などの液体の貯蔵・醸造にむいている。


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須恵器はあな窯で焼かれ硬質で、灰色から青灰色がおおい。



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ここまで復習した。
つづきは次回にしよう


           (兵庫県立考古博物館資料より)




# by jitetabi | 2023-06-01 14:55 | 博物館 | Comments(0)
2023年 05月 30日
スイジガイ
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過日盟友上総守殿と国立民族学博物館へでかけた
膨大な展示資料は一日では、みきれない

今回は日本展示と一部アジアの展示をみてまわった
沖縄の展示のなかに、このスイジガイが展示されていた
上総守殿がなにか気づいたようだった

このスイジガイは宮古島島の資料で
魔よけにつかわれているものだそうだ

後日、上総守殿よりメールがおくられてきた
そのメールに添付されていたのが下記のURLである

壱岐島・一支国王都復元公園

https://ryujincho.exblog.jp/239157698/


大安場史跡公園

https://ryujincho.exblog.jp/239764774/


東京国立博物館

https://ryujinchofamily.exblog.jp/240585071/


上総守殿自身が取材したブログだ

ちゃんと見ていたのである

それが民博でみたスイジガイとつながったのである


ものをよくみて、記録して知識をふやしておくと、

いろいろつながって、発見がある


上総守殿はまさに理想的な取材をしていたのである



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文化庁のCultural Heritage Onlineには、こんな記述がある



巴形銅器 の画像 1 です。巴形銅器 の画像 2 です。



巴形銅器

 ぐるぐると渦を巻いたような形の青銅器(せいどうき)です。一体何に使うものか、わかりますか?よく見ると、円の中心に穴があいています。この穴に棒を通して、戦いの際に盾(たて)や、弓矢の矢を入れる容器に取りつけたとされています。4枚の羽根の先はとがっていますが、武器として使っていたわけではありません。古代では、とがったものは悪いものを追い払うという考えがありました。つまり、戦場で自分を敵から守るためのいわばお守りであったと考えられています。今は青銅が錆びて青緑色になっていますが、当時は金色に光り輝いていましたので、戦場でも目をひいたかもしれません。  このような巴形銅器(ともえがたどうき)は日本独自のもので、2世紀、弥生時代の終わりごろから作られました。当初は羽根が7、8枚ついていて、真ん中は円錐形に盛り上がっていました。特徴的なその形は、スイジガイという巻貝を模したものではないか、という説が有力です。この作品は、中心が円錐形ではなく平らな円になっていることから、巴形銅器の中でもかなり後の時代に分類されています。

文化庁
Cultutal Heritage online より

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あるいは貝釧(かいくしろ)
つまり貝製の腕輪が縄文遺跡から出土するそうだ
ある論文には利器としての利用ものっている

民博での見学はいい経験になった
ちかければ、毎日でもいきたいところである



# by jitetabi | 2023-05-30 16:07 | 博物館 | Comments(0)
2023年 05月 28日
古墳探訪ー岡山県・楯築遺跡ーのたび
2023年5月23日(火)
新幹線で岡山にむかう
桃太郎線・備前一宮へ

盟友、上総殿とでかけた

11:30すぎに備前一宮駅を出発した
上総守殿は駅前で自転車をレンタル

備前一宮の駅のすぐちかくに吉備津彦神社がある
ここでしばらく環状列石をみる

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かえりにゆっくり見ることにして楯築遺跡へむかう

上総守殿のルート計画とちがう道をどうやらはしっている
いきつもどりつして、楯築遺跡の南側についた
12:20すぎ
6.3キロ
古墳探訪ー岡山県・楯築遺跡ーのたび_d0156352_21281873.jpeg
到着して遺跡にいくのに階段をのぼりかけたが、
ほかに入口があるんとちゃうか、ということで、
北側へまわってみることにした

民家から車ででてきた女性に、道をたずねて
ようやく北側にいくことができた

こちら側はきれいに整備されて、案内板もある
古墳探訪ー岡山県・楯築遺跡ーのたび_d0156352_21091146.jpeg
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案内板にはこうかいてある
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楯築遺跡(たてつきいせき)
Tatetsuki Ruins


ここ吉備地方には、 大和朝廷が派遣した吉備津彦命が人々を苦しめた鬼神 (温羅とも呼ばれる) を退治した伝説が残り、 昔話 「桃太郎」の原型になった とされています。

この構築遺跡の上には5つの巨石が立っています。 伝説の中でこの巨石は、 命が温羅の矢を防ぐために築いた楯とされ、名称の由来となっています。 楯築遺跡は、弥生時代後期 (2世紀後半) の墳丘墓です。 推定全長は約80m と当時の墓としては国内最大規模で、墓の主は強大な権力を持っていた人物と 思われます。 当時は楯築遺跡がある丘のふもと近くまで海が入り込んでおり、 瀬戸内海を通じた大陸との交易により、力を蓄えたと考えられます。

There is a legend in the Kibi area that tells of how a prince of ancient Japan named Kibitsuhiko-no-Mikoto vanquished an ogre god (also known as Ura) who tormented the people. This legend is thought to be the model for the famous Japanese fairytale Momotaro.

Five great stones stand above Tatetsuki Ruins. In the legend, these are said to be shields that Kibitsuhiko-no-Mikoto constructed to defend against Ura's arrows. It is thought that these ruins, built in the second half of the second century, were the tomb of an enormously powerful person; at around 80 m long they would have been the largest in the country at the time.

日本遺産「桃太郎伝説の生まれたまち おかやま」推進協議会
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うえにあがってみる
たしかに巨石がならんでいる
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うえにあがったところの案内板の説明
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JAPAN HERITAGE
「桃太郎伝説」の生まれたまちおかやま
〜古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語〜

国指定史跡
昭和56年12月9日指定

弥生時代後期 (2世紀末頃) に造られた墳丘墓。 墳丘は、や や歪んだ円形を呈する円丘部とその両側に長方形の突出部をもつ 特異な形をしていますが、 突出部の大部分は、昭和40年代に 行われた住宅団地造成の際に破壊されました。 消滅した突出部 を含む全長は約80mと推定され、 同時期の墳丘墓では全国でも 最大級の大きさを誇ります。

昭和51年から平成元年にかけて、 岡山大学考古学研究室が中 心となって発掘調査を実施し、 遺跡の全体像が明らかとなりま した。

5個の巨大な立石がある円丘部からは、2基の埋葬施設が確 認されました。このうち中心主体となる埋葬は、円丘中央部に 掘られた長さ9mの巨大な墓壙を伴い、 木棺の外側を木の板で 囲んだ木棺木槨(もっかんもっかく)構造であることがわかりました。 木棺内には鉄 剣1口と、 勾玉や管玉、ガラス製小玉などの玉類が副葬されて いたほか、歯の小片2点も検出されました。 また、 棺の底には、総重量32kgを越える大量の水銀朱が分厚く敷き詰められ ていました。木棺の上方は大量の円礫で埋め戻されており、その中 から特殊器台や特殊壺といった供献(きょうけん)土器をはじめ、 人形(ひとがた)土製品や土製の玉類などが出土しました。 また、 墳丘の脇にある収蔵庫に納められている旋帯文石(せんたいもんせき)(国指定重要文化財) と同様の文様を持 つ小形の石 (弧帯文石・こたいもんせき)が、 意図的に割られた状態で発見されて おり、このふたつの石の関係が注目されます。

南西突出部の調査では、その先端が給水塔のフェンスの下に残 存していることが明らかとなり、平らな面を外側にして立てら れた列石が良好な状態で検出されました。 また、 突出部の前面 では、尾根を切断するように掘られた大溝も確認されており、 墳丘墓の造営がかなり大規模なものであったことがわかります。

楯築遺跡は、弥生時代から古墳時代にかけての墓制の変遷を 考える上で重要な遺跡であるとして、 国の史跡に指定されてい ます。

倉敷市教育委員会
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この楯築遺跡は双方中円墳といわれる古墳で
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<案内板より>

このような形であったようだ

双方中円墳を百科事典でひもとくと
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  • 古墳の一形式
  • 前方後円墳が円丘の一方に長方形台状の付属物を付けたもの
  • 双方中円墳は円丘の前後双方に長方形台状の付属物を付けたもの
  • 実例
    •    香川県高松市 石清尾山(いわせおやま)古墳群中鏡塚古墳
    •    奈良県天理市 櫛山古墳
    •           一方が短小
    • 石清尾山猫塚古墳は最近中央部も方形である可能性指摘される
  • 古墳に先立つ弥生時代の盛土をもつ墳墓を墳丘墓という
    • それらの中には円形や方形の墳丘の一方に、あるいは前後双方に方形台状の突出部を設けた例がある
    • 前方後円墳も双方中円墳もそれらが定型化したものと理解
  • 双方中円墳の墳丘墓としては岡山県倉敷市の楯築遺跡が名高い
(平凡社世界大百科事典)
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いったん休憩してお昼にする
上総守殿との談笑がたえない

この墳丘は神社があったようで、収蔵庫に御神体の亀石をみることができる

説明板には
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施帯文石(せんたいもんせき)

国指定重要文化財
昭和57年6月5日指定

隣にある収蔵庫に納められているこの石は、かつて楯築遺跡の上に建てられていた楯築神社の御神体で、円丘上に 今も残る小さな石の祠に長らく安置されていました。 石の 表面には、帯が円を描きながら複雑に絡み合う文様が彫り 込まれており、その様子は収蔵庫の窓越しに見ることがで きます。 正面には、顔と思われる表現が浮彫りにされており、 地元では別名 「亀石」とも呼ばれています。

この不思議な文様を持つ石は他に類例がなかったため、 その性格や製作時期については長らく謎のままでした。 し かし、岡山大学が実施した楯築遺跡の発掘調査で、旋帯文石と同じ文様をもつ小形の石 (弧帯文石こたいもんせき) が出土したことか ら、この石は、 楯築遺跡と同じ弥生時代の終わり頃に作ら れたものであることが明らかとなりました。

倉敷市教育委員会

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このあと、向山古墳群を見学にゆく


# by jitetabi | 2023-05-28 14:11 | 岡山 | Comments(0)